石井飛鳥 大廻天カルペディエム

その瞬間を愉しもー!

なぜヤルのか

なぜなのか (写真は犬神家っぽい畑中文華)

なぜ呑む、打つ、買うのか。
なぜ撮り、書き、(興行を)打つのか。

ここ一年ギャラリーなどに出入りして、絵描きや写真家と交流してきた。彼ら、ソロで何かを作っている人達に感じるのは「自己実現を原動力に作品をつくっている」ということであった。一方、私は映画演劇に主軸を置いてきた者である。こちらの世界、集団で何かをつくるジャンルでは「観客をどういう気持ちにさせたいか」を重視して作品が作られる。

言葉の過不足を補うと、ソロ作家は欲望、絶望、夢に重点を置いている。集団の作家は企画、客観性、売れ行きに重点を置いている、ということかな。
それは当然で、ソロ作家は客観性ばかりに流され過ぎると没個性化するし、集団はそもそも個人の自己実現なんぞに力を入れたらまとまらなくなる。(これはバランスの問題で、ソロ作家も客観性をもっているし、集団もなんらかの欲望や絶望を個々に解釈して作品に変換している)

楓怪髏子

すべての作品はテーマ題材手法の組み合わせでできている。

恐るべき夕刻の記憶<テーマ>を海の描写<題材>で荒々しく<手法>、油絵で/脚本で/音楽で、作品にする。そういうことだ。

問題はこのテーマの部分で、ここに自己実現を、欲望と絶望を採用するかどうか。
作品に変換したいほどの何かが自己のうちにあり(昇華とか言わねーよ”変換”だ)、それをテーマに掲げられた場合、それは非常に強力な作品になる。しかしこれは感情に大きく頼り、自身の興味に左右される。ソロの作家たちと話していて感じたのは、彼らは常にテーマになりうるものを探しているということ。これは素直に凄いなと思ったのと、そういえば定期的にそんな時期が自分にも来るな、と。

集団の場合はテーマよりも先に<題材>や<手法>が決まっていることが多い。恋愛ものです、とか、怪獣が出ます、とかそういうところだ。<題材>や<手法>がある中で、それに合わせて何を表現するのが相応しいのか。このやり方の良いところは何が完成してしまうのかをある程度予見できるところ、作家のテンションにあまり影響を受けずに制作を進行できるところだ。

※もちろんソロ作家でも題材から決めることはできるし、集団でもテーマ先行でつくることもある。

テーマの据え方としては3つぐらいに分けれると思う。

1.自然と沸き起こる欲望と絶望、幻視と夢(みんな最初はこれ!)
2.アンテナを張り巡らし内面を刺激し興味を絶やさずテーマ足りうるものを持ち続ける技(作家)
3.題材、手法、世相を総合的に読み決定する、今やるべきテーマ(商業作品)

最強は1、継続性は3だ。
誰しも、自分も、1で始めた。
そして2と3を行き来してきた。
だけど、やはり時折襲いかかってくるのは1の圧倒的な運命。

なぜヤルのか。どんな技術を身に付けても、どんなに何をすべきかが分かっていても、そんなこと以上に決定的な、あの日の朝焼けに伸びた影。そしてまた夕刻。
ずっとずっと見つめつづけ怯えつづけた境界へ、
何が起こるか分からないその一歩を踏み出し続けるのだ、次の明日へ。

境界の写真劇

ishiiasuka.hatenablog.com


Carpe diem🍺 Memento mori💕